要旨
本レポートは、東北地方が有する豊かな食資源を最大限に活用し、新たな成長エンジンを創出するための「東北フードバレー」構想の実現可能性について、海外の先進事例からの示唆を基に考察するものである。東日本大震災からの復興需要が収束しつつある現在、東北地方は人口減少、少子高齢化、低生産性といった構造的課題に直面している。これらの課題を克服し、地域経済の持続的な発展を達成するためには、従来の延長線上ではない革新的なアプローチが不可欠である。
分析の結果、東北地方は米、果物、海産物など多様な農林水産物に恵まれているものの、個々の優れた取り組みが「点」として存在し、それらが有機的に連携し、継続的なイノベーションを生み出す「面」としての産業エコシステムが十分に形成されていない現状が明らかになった。この課題に対し、オランダの「フードバレー」は極めて有効なベンチマークとなる。ワーヘニンゲン大学&リサーチ(WUR)を核とし、フードバレー財団が産官学連携を促進するこのモデルは、知識の集積と共有、共同研究の組成、スタートアップ支援を通じて、中小企業を含む多様なプレーヤーがイノベーションの恩恵を受け、競争力を高めることに成功している。
この海外事例からの示唆に基づき、東北地方が取り組むべき研究テーマとして、以下の3点を提案する。第一に、東北大学農学部や各県の公設試験研究機関を核とした広域連携組織「東北アグリフード・イノベーション機構(仮称)」の設立に向けたガバナンスモデルの構築。第二に、東北独自の地域資源をテーマに、国内外の大手食品企業や異業種を巻き込むオープンイノベーション・プラットフォームの設計。第三に、中小食品加工業者や農業法人がデジタル技術導入や新商品開発を加速させるための伴走型支援プログラムの構築である。これらの提言は、東北の食資源を単なる生産物としてではなく、「知識を基に新しい価値を共創する」という市場・社会起点の段階へと発想を転換し、持続可能なイノベーション・エコシステムを構築するための具体的な道筋を示すものである。
序論
東日本大震災から10年以上の歳月が経過し、復興需要が徐々に収束しつつある現在、東北地方は新たな局面を迎えています。為替変動や原材料価格の高騰といった外部環境の変化に加え、全国に先駆けて進行する人口減少と少子高齢化、そして所得水準や一人当たり付加価値額の低さといった構造的な課題が、より一層鮮明に浮かび上がってきています [1]。これらの課題は、労働力の供給制約、地域市場の縮小、社会保障負担の増大、地域経済の稼ぐ力の低下といった形で、地域経済に多岐にわたる影響を及ぼすことが懸念されています [1, 2]。
このような状況において、本レポートは、東北地方の地方自治体において産業振興を担う役職者が、今後の政策立案や事業構想の参考としうる、具体的かつ実現可能性の高い研究テーマの一つとして、「アグリフード・イノベーション・クラスターの形成」、すなわち「東北フードバレー」構想の実現可能性を提示することを目的とします。このテーマは、東北地方が持つ固有の資産、特に豊かな農林水産物を単に保護・維持するだけでなく、新たな発想と技術によってその価値を飛躍的に高め、新産業創出に繋げるという革新的な視点を提供することを目指します。
本レポートでは、まず東北地方の食資源に関する現状と課題を詳細に分析します。次に、海外の先進的な成功事例として、オランダの「フードバレー」をベンチマークとして設定し、その成功の根底にある「仕組み(システム)」や「思想(フィロソフィー)」を深く掘り下げて分析します。そして、その本質的な成功要因を東北地方の社会的・経済的文脈にどのように応用できるのか、という戦略的な視点からの考察を行います。これにより、学術的な探求に終わらない、具体的な政策オプションに繋がりうる、実用性の高い提言を目指します。
第1章 東北の現状と課題
1.1. 東北の現状:豊富な食資源と潜在能力、そして「点の集合」という課題
東北地方は、日本の食料基地として極めて重要な役割を担っています。米やりんご、さくらんぼといった農産物は全国トップクラスの収穫量を誇り [3]、三陸沖を中心にカキ、ホタテ、ギンザケ、ワカメ、サンマなど、多種多様な海産物が水揚げされます [4]。青森のニンニクやナガイモ、岩手の雑穀、宮城の小麦、秋田の比内地鶏など、各県が誇る特産品は枚挙にいとまがありません [4]。これらの豊富な一次産品は、東北地方が持つ最大の「地域資源」の一つであることは論を俟ちません。
こうした豊かな資源を背景に、これまでも個別の事業者や地域単位での高付加価値化の試みは数多く行われてきました。例えば、岩手県では、地域産業資源活用事業として、海藻に含まれる機能性成分を活用した健康食品の開発、伝統的な雑穀を用いた新しい味噌・醤油の開発、あるいは地元産のりんごを原料としたアスリート向けのスポーツジャム開発など、先進的な取り組みが認定されています [5]。これらは、地域の資源に新たな価値を見出し、イノベーションを創出しようとする意欲的な試みであり、いわば輝かしい「点」として存在しています。
しかし、地域経済全体を俯瞰したとき、これらの優れた「点」が有機的に結びつき、互いに刺激し合いながら地域全体としてイノベーションを継続的に生み出す「面」としての産業エコシステムが十分に形成されているとは言い難いのが現状です。国土交通省の調査でも、農林水産業と工業技術を連携させる「農商工連携」による新産業創出が重要な戦略として掲げられていますが [6]、その実現は依然として個々の事業者の努力や、散発的なマッチングイベントに依存している側面が強いと言えます。優れた生産者、意欲的な加工業者、そして大学や公設試験研究機関の持つ技術シーズが地域内に存在しながらも、それらが効果的に連携し、新たな価値を共創する「仕組み」が不足しているのです。
第2章 海外先進事例の分析
2.2. 海外ベンチマーク分析:オランダ「フードバレー」― 知識とイノベーションの集積地
この「点の集合」から「共創のプラットフォーム」へといかにして移行するかを考える上で、オランダの「フードバレー」は極めて示唆に富むベンチマークとなります。九州ほどの面積しかない小国でありながら、アメリカに次ぐ世界第2位の農産物輸出大国であるオランダ [7]。その成功の中核を成すのが、フードバレーと呼ばれる世界最大級の農業・食品産業クラスターです。
エコシステムの核心:ワーヘニンゲン大学&リサーチ(WUR)
フードバレーの成功は、単なる企業の集積によるものではありません。その心臓部には、ワーヘニンゲン大学&リサーチ(WUR)という、世界最高峰の農学・生命科学分野の大学・研究機関が存在します [8]。WURの特筆すべき点は、その研究姿勢が「科学のための科学」ではなく、「社会的・経済的に価値のある研究」を行うことを明確な戦略として掲げている点です [8]。企業や公的機関との密接な連携を前提とした研究プログラムが組まれ、基礎研究から応用研究、そして社会実装までが一気通貫で考えられています。学生がベンチャー企業を立ち上げる際の支援体制もキャンパス内に整備されており、大学自体がイノベーションの強力なエンジンとして機能しています [9]。
プラットフォーム機能:フードバレー財団
このエコシステム全体を潤滑に機能させる触媒(カタリスト)の役割を担っているのが、2004年に産官学の連携によって設立されたフードバレー財団です [10]。この財団は、WURを拠点としながら、国内外の企業、研究機関、政府機関を繋ぐ広範なネットワークを構築・運営しています。その主な機能は、①革新的な共同研究プロジェクトの組成・支援、②大学発スピンオフやスタートアップの起業促進、③EU全域にわたる「知」の集積と共有、④他の食品クラスターとの国際連携、⑤国際会議や展示会を通じた普及活動など、多岐にわたります [8]。これにより、多様なプレーヤーのシーズとニーズが効率的にマッチングされ、新たなイノベーションが次々と生まれる土壌が育まれています。
中小企業(SMEs)への貢献
フードバレーのエコシステムは、大企業だけでなく、中小企業(SMEs)の参画と成長にも大きく貢献しています。WURは、企業規模を問わず、農業・食品分野の事業者に対して「ワンストップショップ」として機能するデジタルイノベーションハブを運営しており、アイデアの事業化に必要なあらゆる支援を提供しています [11]。中小企業は、このハブを通じて、自社だけでは保有が難しい最先端の研究開発施設や、ロボティクス、データサイエンス、AIといった先端技術に関する専門知識にアクセスすることが可能です [11]。これにより、例えばオランダ国内の多くの中小の農業生産者や食品加工業者が、スマート農業技術を導入したり、新たな機能性食品を開発したりと、エコシステムの一員としてイノベーションの恩恵を受け、競争力を高めています [12]。
第3章 東北における研究の焦点と政策的インプリケーション
オランダの事例を分析すると、東北地方が「フードバレー」構想を実現する上での重要な示唆が浮かび上がります。第一に、フードバレーの成功の鍵は、生産される「資源の質」そのものよりも、多様な主体を繋ぎ、知識を共有・移転させ、新たな価値を共創する「連携の仕組み」にあるという点です。東北地方の農林水産物の品質が世界レベルであることは疑いようがありません [3]。課題は、その優れた資源をいかにしてイノベーションに繋げるかという点にあります。これは、東北が単に「良いものを作る」という生産者中心の段階から、WURが実践するように「知識を基に新しい価値を共創する」という市場・社会起点の段階へと、発想を転換する必要があることを示唆しています。政策の力点は、個別の生産者や加工業者への支援に留まらず、イノベーション・エコシステムそのものを構築することに置かれるべきです。
第二に、日本国内にも目を向けることの重要性です。北海道で進められている「フードバレーとかち」は、オランダモデルの日本版とも言える、極めて重要な先行事例です [13]。十勝地方が持つ圧倒的な食料生産能力を背景に、「オール十勝」での産学官金連携体制を構築し、帯広畜産大学をはじめとする研究機関の集積を活かしながら、ブランド化、新商品開発、海外展開、そして人材育成に至るまで、総合的な産業政策を推進しています [13]。この「フードバレーとかち」の成功要因、すなわち、明確なビジョンの共有、強力な推進母体(フードバレーとかち推進協議会)、そして事業者の挑戦を後押しする具体的な支援プログラム(十勝人チャレンジ事業など)を詳細に分析することは、東北全域版のモデルを構築する上で、現実的かつ具体的な示唆を与えてくれるでしょう。
これらの分析に基づき、東北地方の自治体が取り組むべき研究テーマとして、以下の3点を提案します。
ガバナンスモデルの構築
東北大学農学部や各県の公設試験研究機関といった既存の「知」の拠点を核とした、広域連携組織「東北アグリフード・イノベーション機構(仮称)」の設立に向けた研究。オランダのフードバレー財団の運営モデル [10] と、フードバレーとかち推進協議会 [13] の組織体制を比較分析し、東北地方に最適化されたガバナンス、各機関の役割分担、そして持続可能な財源確保のモデルを具体的に設計する。
オープンイノベーションの促進
東北独自の地域資源(例:白神山地由来の酵母、多様な発酵文化、未利用の海藻類 [5]、豊富な森林資源を活用した機能性食材)をテーマに設定し、国内外の大手食品企業や、製薬・化学といった異業種を積極的に巻き込むためのオープンイノベーション・プラットフォームの設計研究。WURの企業連携プログラム [9] を参考に、共同研究、技術ライセンス、人材交流、M&Aなどを促進する具体的なスキームと、その運営体制を検討する。
中小企業・スタートアップ支援
地域の大多数を占める中小食品加工業者や農業法人が、デジタル技術の導入(DX)や、健康志向・環境志向といった新たな市場ニーズに対応した新商品開発を加速させるための、伴走型支援プログラムの研究。WURのスタートアップ支援機能 [9] や、おかやま「食のビジネスサポートセンター」が提供する専門家による助言指導、事業計画策定、販路開拓支援といった一貫したサポート体制 [14] をモデルケースとし、東北の実情に合わせた支援メニューと実施体制を構築する。
結論
本レポートでは、東北地方の持続的な成長に向けた「東北フードバレー」構想の実現可能性について、その現状と課題を分析し、オランダのフードバレーの成功事例から得られる示唆を基に、具体的な政策的インプリケーションを提案した。東北地方は豊かな農林水産資源を有しているものの、個々の取り組みが「点」に留まり、地域全体としてのイノベーション・エコシステムが十分に機能していないという構造的な課題に直面している。この課題を克服するためには、単なる生産性の向上に留まらず、多様な主体が連携し、知識を共有・移転することで新たな価値を共創する「仕組み」を構築することが不可欠である。
オランダのフードバレーは、ワーヘニンゲン大学&リサーチ(WUR)を核とし、フードバレー財団が産官学連携を強力に推進することで、基礎研究から社会実装までを一貫して支援し、中小企業を含む多様なプレーヤーのイノベーションを加速させている。この成功モデルは、東北地方が目指すべき方向性を示唆している。すなわち、東北大学農学部や各県の公設試験研究機関といった既存の「知」の拠点を最大限に活用し、広域連携組織を設立することで、地域全体のガバナンスを強化し、オープンイノベーションを促進する環境を整備することである。さらに、地域の中小食品加工業者や農業法人が、デジタル技術の導入や新商品開発を加速できるよう、伴走型支援プログラムを構築することも重要である。
これらの提言は、東北の食資源を「良いものを作る」という生産者中心の段階から、「知識を基に新しい価値を共創する」という市場・社会起点の段階へと発想を転換し、持続可能なイノベーション・エコシステムを構築するための具体的なロードマップとなる。本構想の実現は、東北地方の地域経済に新たな活力を与え、人口減少や少子高齢化といった構造的課題の解決に貢献し、ひいては日本の食料安全保障と地域活性化に寄与するものである。今後、これらの研究テーマを具体化し、関係機関との連携を深めながら、実践的な取り組みを進めていくことが期待される。
参考文献
[1] 東北経済産業局. (2023). *東北経済の現状と課題*. 経済産業省.
[2] 国土交通省. (2022). *国土交通白書*. 国土交通省.
[3] 農林水産省. (2023). *作物統計調査*. 農林水産省.
[4] 水産庁. (2023). *漁業・養殖業生産統計*. 水産庁.
[5] 岩手県. (2023). *地域産業資源活用事業認定事例集*. 岩手県.
[6] 国土交通省. (2021). *農商工連携による新産業創出の推進*. 国土交通省.
[7] オランダ農業・自然・食品品質省. (2023). *Dutch Agricultural Exports*.
[8] Wageningen University & Research. (2023). *About WUR*.
[9] Wageningen University & Research. (2023). *Innovation & Enterprise*.
[10] Food Valley NL. (2023). *About Food Valley*.
[11] Wageningen University & Research. (2023). *Digital Innovation Hub*.
[12] Food Valley NL. (2023). *Success Stories*.
[13] フードバレーとかち推進協議会. (2023). *フードバレーとかちとは*.
[14] おかやま「食のビジネスサポートセンター」. (2023). *事業内容*.